岐阜青年会議所とは?

世界に誇れるぎふのまちを目指し、共に歩もう。



 未来を担う子供たちに、「自分にはできる」という自己効力感を育むことで、夢を語ることができるようになって頂きたいと考え事業を展開していきます。自らの未来に責任をもち自ら考え選択し主体的に行動することや、目の前の壁に対しあきらめず乗り越える実体験を積む機会を提供することで、希望を抱き未来を切り拓く力を得て頂きます。


 ぎふのまちが誇る資源を活かしながら、人々がコミュニケーションをとることで日本そして世界を魅了するぎふのまちを創出します。また、まちづくり運動ビジョンをもとに、地域コミュニティ、各種団体、企業、行政が密接にコミュニケーションで結びつき、常に変化の起き続けるぎふのまちの実現に向け行動していきます。

 


 「明るい豊かな社会」を実現することを目的にぎふのまちで活動を続けてきた岐阜JCが、今後も社会に必要とされ続けるためは、今何をすべきかを新鮮な視点で考えていくこと、岐阜JCがどのような価値を提供できるのか、岐阜JCが行う事業がどのようなニーズを満たせるのかを自ら問い続けていける組織を目指します。

岐阜青年会議所 創設

 日本における青年会議所の起源は1949年9月3日、東京青年会議所が産声を上げたのが始まりでした。その後各地で設立の機運が高まり、岐阜においても財界名士の方々から青年会議所の設立を勧められたのを発端として岐阜青年会議所の誕生へと至ったのです。

1945年、戦争で廃墟となった岐阜のまち
柳ケ瀬通から西(本郷地区)を望む。
(横の道は金華橋通り)
徹明町忠節方面電停前十六銀行
(右奥は金神社)

 岐阜の経済がどうなっていくのか、前途には何があるのか考える暇もなく、焼け跡の整理、食料の確保に奔走し、占領下経済の混乱の中で再起復興に懸命な努力の日々でした。
 1949年から50年頃になると、シャウプ税制勧告やドッジライン等の経済政策が行われる中で、不況の様相が強くなってきたところへ、朝鮮事変による特需景気が日本経済を好転させるきっかけになりました。
 そのような社会背景の中で、十六銀行柳ヶ瀬支店の取引先を中心として「今後の経済問題についてお互いに研究しあおう」といった若手同好の士によって、”経友会”という会が結成され、これが岐阜青年会議所の母体となりました。

 
 1951年になり十六銀行の吉川智慧丸頭取や、当時外遊から帰国された山崎一氏らから、海外JCの状況についての話があり、両氏の勧めによって、岐阜青年商工会議所(当時は商工という文字が入っていました)の編成に着手することになったのです。
 当時日本におけるJCは、最初に東京において発足し1950年に名古屋で結成されたばかりで、地方都市にはまだ殆どありませんでした。また、会員の資格年齢も35歳を限度としていたJCが多かったために、経友会の半数程度は入会出来ない状況でありました。定款も他のJCと共通のもので準備を始めましたが、地方の諸事情もあって若干の訂正を余儀なくされました。
 そうした様々な課題を克服し、1951年6月24日、吉川頭取、岐阜商工会議所会頭 山崎一氏、スポンサークラブである名古屋JCより、神野三男理事長、吉木賢三理事、井元啓太理事を迎え、レストラン協和(現在の神田町1 協和興業ビル)において臨時総会を開催、全国で21番目の青年会議所として会員43名で発足しました。尚、この総会において決議された岐阜JCの顧問には、武藤嘉門 元岐阜県知事、東前豊 元岐阜市長、吉川智慧丸元十六銀行頭取、山崎一 元岐阜商工会議所会頭、桑原芳吉・佐藤潔・郷諦 各岐阜商工会議所元会頭ら岐阜県下の有力者の名が連ねられています。(写真は設立当時の岐阜JCメンバー)

1951年 岐阜青年会議所 定款 第一章 第一条

「本会議所の目的は青年の努力を結集して都市に奉仕し、
積極的建設的計画によって都民の福祉を増進し又会員相互の啓発と親睦を図り、
青年独自の立場より日本経済の発展に寄与するとともに、
目的を同じくする世界の青年と提携して人類の福祉、世界平和達成の
原動力となることにある。」