1949年、明るく豊かな社会の実現を理想とし、次代のリーダーとなる責任感をもって、お互いに切磋琢磨しようという情熱をもった青年有志による東京青年商工会議所(商工会議所法制定にともない青年会議所と改名)設立から、日本の青年会議所(JC)運動は始まりました。共に向上し合って、社会に貢献しようという理念は瞬く間に全国に拡がり、各地に次々と青年会議所が誕生。1951年には全国的運営の総合調整機関として日本青年会議所(日本JC)が設けられました。
現在、全国に709 の青年会議所があり、約40,200人の会員が、JC運動の三つの信条「奉仕・修練・友情」のもと、民主主義を守り、自由経済体制の確立による、よりよい社会づくりをめざして、ボランティアやまちづくりから、行政改革、地方分権などの社会的課題に積極的に取り組んでいます。さらには、国際青年会議所(JCI )のメンバーとして各国の青年会議所と連携し、国境を越える交流や地球環境保全など世界を舞台として、さまざまな活動を展開しています(LOM数、会員数:平成20年1月1日現在)。
日本JCのルーツ
日本における青年会議所運動は、1人の青年実業家の「ある失望」に端を発しました。 それは戦後まもない1948年の夏のことでした。
占領軍の公職追放の嵐は産業界までふきすさび、すでに財閥は解体されていました。大企業はずたずたに分断され、経済界は骨抜き同然の姿に変わり果てていました。敗戦という大きな代償を払ってまで獲得した民主政治を基盤とする自由主義体制は、本当に定着するだろうか。あるいは、このまま急速に社会主義体制化の道を突っ走ってしまうのだろうか。自体は混沌としていたのです。
1948年帝国陸軍の商工として努めを終え、戦場から帰ってきた当時28歳の三輪善兵衛氏は、焼けてしまった自分の工場を復興、再建すること、そして指導的青年の在り方、若き経営者の在り方を真剣に考え続けていました。
この世の中で明日の道をいかに切り拓くか、青年はいかに在るべきか。三輪氏はその問題を解決するためには、財界の先輩になんとかして教えを受ける必要があると考えました。
しかし先輩は「三輪君、私は教えるまでもなく、これからは君たちが日本を支えていかなければならない。君たち以外には誰も、何もする人がいないんだよ。我々の時代は過ぎたんだよ。」と明日への道を明確に指し示すことはありませんでした。意に反した三輪氏の落胆は非常に大きく、保身に身をついやす先輩の姿に深く失望し、結局自らの若い力の集まりで道を切り拓かなければならないと決意するに至ったのです。
三輪氏はまず東京商工会議所の藤岡総務課長に相談し、援助を求めました。彼もまた健全な発展のために青年部的なものを作ろうと考えていた矢先のことでしたので、藤岡氏は即座に首を縦に振ったのでした。どの団体にも属さない自発的で自主的な、青年独自の運動を描いていた三輪氏は、外国にもそういう団体があるらしいとJCIの資料を取り寄せました。
こうして、一同の志向は、青年経営者たちの自己修練と地域への奉仕を通じ、日本経済再建の担い手としての力を養うことを目的とした組織、という方向に固まり、48名の同志を集め、1949年9月3日「東京青年商工会議所」の発会式が行われるに至ったのです。
東京青年商工会議所の設立総会はその日の夕刊に掲載されたため、同じ考えをもった各地の青年たちからの反響は大きく、JC運動 2年目に入った1950年には、日本青年会議所が結成され、それに伴っていわゆるJC運動三原則(トレーニング、サービス、フレンドシップ)が確立されました。
1951年 5月、カナダのモントリオールで行われた第 6回 JCI世界会議には、東京JCや各地JCから 7人の日本人がオブザーバーとして参加し、日本JC加入の件が、満場一致で承認され、 JCIの仲間入りをするに至ったのです。
この翌 6月には岐阜青年会議所は設立されました。つまり、日本におけるJCの歴史の草創期に岐阜JCは誕生したことになります。